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1961年11月、大阪市都島区に生まれる。
それはそれはかわいらしく、母が私を連れて電車に乗るときは、他の乗客に見えるよう前向きにして膝に座らせていたそうです。(あくまで母親談です・笑)
2歳のとき、大阪市の南端、東住吉区に引っ越し、ここで12歳まで過ごします。
初恋は幼稚園のとき(ませてますね)、相手はロングヘアがかわいい、同じクラスのてるちゃん。このときに刷り込まれたのか、いまでもロングヘアの女の子が好きです。(^^)
このころから運動神経のなさが出ていたようで、しょっちゅうこけては、膝に傷を作っていました。それらの傷は、いまでも私の膝に残っています。
小学校に上がると、私たちの世代の男の子は、みんな野球をします。
私も、近所のおにいちゃんや同級生たちと、当時はたくさんあった池の埋め立て地などで、よくやりました。
でも、下手でした。
あまりに下手で、みんなから「打てば三振、守ればエラー、走りは遅い〜!」とよくからかわれたものです。
小学2年の頃でしょうか、父から黒地に赤のラインが入った、かっこいいグローブを買ってもらいました。
私はすごくうれしかったのですが、近所の子達から「下手なくせにエースのグローブ使(つこ)とおる〜(関東弁で言うと「使ってやがる」という感じですね)」とからかわれました。
また、ユニフォームの背番号を決めるとき、「お前100番付けろ」などと言われました。
いまでこそ、イチローや松井のように背番号が大きくても関係ないのでしょうけど、当時は、背番号が大きい=下手というイメージがあったので、結構つらかったです。(結局無理矢理10番にしました)
野球が下手というのは、当時の男の子としては致命的なことで(と自分では思っていた)、そのコンプレックスは、マラソンを始めるまで続くことになります。
う〜ん、ここまで書いてきて読み返すと、私っていじめられっ子だった?(笑)
これだけ読むとそう思いますね。(笑)
でも、野球をはじめとして、運動は苦手な少年でしたが、小学2年の時には、学級委員もやりましたし、毎年好きな女の子ができるマセガキでもありました。
小学6年の11月、あともう少しで卒業という時期に、大阪府松原市に引っ越し、そこで青春時代を過ごします。
中学生の頃は、いまでは考えられないですが、人前でははずかしくてまったく喋れない少年でした。放課後女の子に「バイバイ〜」と言われても、恥ずかしくて「バイバイ」と返せず、「あ、。さ、さよう、なら」みたいな感じでした。ホントですよ。
また、クラブにも入らず、家から学校まで徒歩1分、走って30秒とすごく近かったので、学校が終わると飛んで帰り、4時から6時半まで、「飛び出せ青春」やアニメなんかの再放送を観て過ごすという、くさった中学生でした。(苦笑)
でも、高校に入って、なぜかハンドボール部に入ります。
相変わらずの運動神経のなさで下手くそでしたが(苦笑)、炎天下の練習でも、最後まで走り回れる自分に、そこそこの根性と持久力があるのを知りました。
1年生の冬、クラブ対抗駅伝大会で1区(約2.5km)を走り、陸上部A、陸上部B、卓球部、サッカー部Aに続く5位で第2走者にたすきを渡し、最終4位に貢献したのは、運動ではじめて味わう華やかな思いでした。
このクラブ活動が人間を変えたのか、人前でも話せるようになり、3年生の頃には、自慢ですが(笑)、2年生、1年生にそれぞれ小さな私のファンクラブがありました。(エッヘン・笑)
高校3年の5月の大会でクラブを引退後、運動しない生活が何年も続きます。
この間、おもしろい話はいろいろありますが、ここでは、「ランナーほにゃらか」という切り口で書いていますので、また機会があれば。(笑)
月日は流れ、25歳のとき、なぜか分かりませんが「トライアスロンをしたい」という思いに駆られます。なぜそう思ったのかは覚えていません。よくある、ジュリー・モスが這いながらゴールしたシーンを観たとか、宮古島トライアスロンの番組を観たということもありません。でもなぜかトライアスロンだったんです。
何でも形から入る私は、当時、バリバリに活躍していたプロトライアスリート、城本徳光さんのショップでバイクを作り、トライアスロンの練習を開始しました。
でも、結局、ちょこちょことかじっただけで、大会にも出ることもなく、ズルズルと辞めてしました。
またまた月日は流れ、30歳になる年(1991年)の8月、知人に誘われ青梅マラソンの申し込みをしました。
でも、抽選に当たり、出場資格は得たものの、まったく練習してませんでした。
年が明け、私を誘った知人から「出るの?出ないの?どうするの?」と追い込みが掛かり、「出ます」と答えた私は、その直後の休日からたばこを止め、練習を開始しました。
約1ヶ月半、練習の仕方もよく分からないながらも少しは練習し、本番を迎えました。
結果は、22km以降歩きが入る苦しい展開でしたが、2時間56分(青梅マラソンは30kmレースですのでお間違えなく・笑)で何とかゴール。
これが私の初めてのレースでした。
その後、一瞬マラソンの面白さに目覚めましたが、結局続かず、その後は、年に一度、青梅マラソンに出るだけの時代が何年か続きます。
毎年、ほとんど練習せずにレースに参加してはボロボロになり、来年こそは、きっちりと練習を積んでいい結果を出すぞ!と反省はするものの、結局ズルズルと、ほとんど何もしないまま本番を迎える、という状態が続いていました。
そして、1998年2月15日の青梅マラソン。
今までと同じようにボロボロでレースを終えた後、自分自身への腹立たしさから、(自分自身に)この先も走るのか、やめるのかの決断を迫りました。
走るのなら、きっちり練習を積んで結果を出す。
もしそれができないのなら、もう走らない。
一週間考え出した結論は・・・、きっちりと練習を積んで、一年後の青梅を目指そう!ということでした。
こうして、ランナーほにゃらかが誕生したのでした。
このつづきは・・・、「実録!サブスリーへの道」をお読み下さい。(^^)
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